カテゴリー別アーカイブ: 「自分」という永遠

生命の理力2 無極のカタチ

前回のたとえを続けますと。

「無極」とは、実体である“肌”そのものの形に相当します。

それは無や有といったものにさえ、制限されません。

親指は太くて短い。人差し指は細くて長い。

では、肌そのものは太いか細いか。短いか長いか。

聞かれても答えられませんよね。

かといって、大きさがゼロなのかというと、そういうわけでもない。

というより、形があるとかないとか、そういう次元に与していないわけです。

そしてだからこそ、それらが織りなすあらゆる形になることが出来る。

この絶対無たる無限性こそが、“is-ness”という存在そのものの在りようだということが出来ます。

「在る」ことの対がまさに存在しないように、無極なるカタチは普遍かつ不変。

「無限」の外にあるものは存在しないからです。

全てのカタチあるものは変化しますが、それは変化するべきいかなるカタチも持ちません。

本の中で述べたように、この「無極」は、特定のカタチである客体に属さない、主体である「自己」の本質そのものでもあります。

私たちは、その本質に「絶対」と「永遠」を宿しています。

生命の理力1

それら全てのカタチは、「在る(is-ness)」ことの顕れ。

手で例えるなら、そこには、手のひら、親指、人差し指……と様々な形があるけれど、それらは全て「肌(皮膚)」によって出来ている。

突き詰めれば、そこには「肌」という“実体”があるだけであり、全ての存在はその実体の表現であるわけです。

 

同様に、全ては「在る」ことの表現であり、「在る」という動詞的な側面、「在り方」という名詞的な側面、その両面が支えあって、一つの「存在」という宇宙が出来上がっています。

そしてその理をなす大いなる力こそが、“生命”の叡智。

「存在」という宇宙は、同時に“生命”の理力によって成り立っています。

「ゼロ」をも超えて

ノンデュアリティでよく言われる「自分はいない」に関連して、「空の境地」や自己と世界の幻想性を追求した結果、生きることが空しくなってしまったという悩みをよく聞きます。

それは、説き方が不十分なため生じる誤解によるもの。

そもそも、自己の本質とは「無」ではないんです。

たしかに何もないのだけれど、一口に「無」といってもそこにはいくつかのバリエーション(違い)があります。

そこで、「無」に関して僕は「相対無(ゼロ)」「絶対無(無限)」「無る(非在)」という三つの表現を用いています。

 

「相対無」とはいわゆる「ゼロ」のことだけれど、自己や世界の本質にある「無」をこのゼロだと思い込んでしまうと、虚無主義に陥り、生きることが空しくなってしまいます。

そうではなくて、カタチを超えた自己の本質とは「絶対無(無限)」の方なんです。

特定のカタチに制限されない、つまり有にも無にも限定されないからこそ、あらゆるカタチをそこに内包することが出来る。

その限りなさ、無限定さが自己の本質なのであって、それはいわば全てのものごとに対して“中立(ニュートラル)”であるということ。

だから、自我があるとかないとか、あるいは平和であるとか穏やかであるとか、そういうことにさえ囚われる必要はないんです。

 

このように、ひと言で「無」といっても、そこには微妙に異なるいくつかの色彩があります。

雪の結晶が一つひとつ違って、しかもどれも完璧に美しいように、各々の存在には固有の音色があって、それぞれがそれぞれに完成されています。

個々にかけがえのない意味と役割を与え、世界における居場所を与えていく。

尊び、全体の環の中に繋げ、紡いでいく。

そうして大きな色彩の環(グラデーション)が出来上がり、大いなる宇宙という交響曲、“コスモス(調和、大宇宙)”が奏でられています。

 

生命の叡智は、大いなる愛であるともいうことができます。

なぜなら、全ての存在は「慈しみ」によって描かれているから。

「慈しむ」とは「尊ぶ」こと。

 

生命の尊厳と調和に基づく哲学は、ここから生まれます。

「自分」はいない!?

先日、地球ひろしさんとのお話会を開催した。

少人数で、かなり学んでいる人たちばかりだったので、話がとても進めやすい面があったけれど、よくある代表的な質問も改めていくつか頂いた。

その内の一つが、「自分はいない」というもの。

ノンデュアリティの説明は、この「自分がいない」という究極的な在り方を軸になされることが多い。

でも普通の感覚で言えば、ここが一番分かりづらく、理解しがたい点でもある。
 
 

実は、この日の夜、再び「自分はいない」体験が訪れた。

当日、僕はなぜかラマナ・マハルシという聖者のことが気になっていた。

インドの聖者だということは知っていたが、本を読んだこともなく、これまでまるで接点がなかったにも関わらず、急に気になり始めたのだ。

そこで、会の後の懇親会で、スピリチュアルに詳しいひろしさんに尋ねてみた。

曰く、近代のノンデュアリティの源流のような聖者で、現在各国で活動している人の多くは、この方のお弟子さん筋であるとのこと。

その時は、ふーん、という感じで収まったのだけれど。

 
 

その日の夜、就寝前に横になっていると、またこの聖者の名前が気になり始めた。

すると突然、「ただ在る」という感覚が自分の中に広がり、その限りない静寂の中に音なき音、静謐かつ荘厳な生命のエネルギーがあふれ出てきた。

これまでの純粋なチャネリング状態に近いもので、最近感じている感覚と同質の、でももっと純度と密度を高めたような、輝くような素晴らしい平和の感覚に満たされた。

そうしてしばらくすると、再び「自分がいない」体験が起こったのだ。

でも今回違ったのは、次の瞬間、写真を眺めるように、その「自分がいない」状態を反芻出来たこと。

それにより、はっきりとこの状態を顧みることが出来た。

やはり、「自分」がなくなるわけではない。

その「自分はいない」という体験をしている、根底にある主体者としての「自分」は存在している。

そうでなければ、「自分はいない」ということすら言えなくなる。

そもそも、カタチなき「無極」としての自分は、カタチないゆえに変化することはなく、永久不変であり、けっしてなくなることもない。

それは、これまで話してきた通りだ。

ただ、この状態においては自分という観念あるいは感覚が消え去っている。

通常、無意識に抱いている「世界」とそれを体験している「自分」という彼我の構図が消え去り、ただ「起こり」だけがある。

「世界」は、背後にある宇宙自然の叡智の顕れであり、それは「自分」だってそう。

その自ずからなる「起こり」という視点において、両者は統合される。

それが「自分はいない」という言葉で表されている内容で、いわば自分という“自意識”が抜け落ちた状態だ。

逆を言えば、「自分」という感覚が失せているだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。

その「自分」があるかないかは正直どちらでもいいこと。

どのみち、「起こり」があるだけだからだ。

むしろ、自分があるかないかにこだわることは、それ自体が二元的な発想であり、ノンデュアリティとは関係がない。

だから、自我を失くすことが究極なのでもなんでもなく、自我意識があってもなくても、どれも等しく究極であり、素晴らしい叡智の顕れなのだ。

それを今回、明確に実感した。

大事なのはむしろ、今に寄り添い、生命の流れと共にあること。

そこに意識の変容の要があることが、改めて強く認識された。
 
 

ノンデュアリティの誤解により迷っている多くの人たちに、この事実が広まるように、この体験が、このタイミングで、起こったように感じる。

是非ともここでシェアしたいと思います。
 
 
 
 

ただ、在ってみよう。

 

何が聞こえる?

 

何を感じる?

 

静寂の中に響く音なき音。

 

生命の充謐。

 

満ち溢れる「名のなき平和」が、そこには広がっている。