ノンデュアリティについての質問2

Q:
ノンデュアリティでは「自分はいない」ということがよく言われていますが、一方で真我への到達ということも言われています。
まるっきり矛盾しているように感じますが、どうして全く異なる説明がなされるのでしょうか。

A:
「自分」や「他人」という区分けは観念、つまり頭の中のイメージによるものです。
観念を通すことなく、ただ純粋に「在る」ことによって、名前や意味を投影する前の本来の世界の姿が顕れてきます。
それは自他という個別の境界に分かれていない存在一元の世界です。
そこにおいては、(他者の対概念としての)「自分」がありません。
ゆえに、「自分はいない」という表現になるわけです。

けれどそこにおいても、その「自分はいない」という体験をしている自分自身はいるわけです。
それはあらゆる存在世界そのものを映し出す、“場(スクリーン)”としての自分です。
世界の中のあらゆるカタチに属さない絶対無、無限定なる“場”こそが、自己の真実の姿です。
それを本当の自分という意味で、真我と呼んでいるのです。

ノンデュアリティについての質問2」への2件のフィードバック

  1. 「私はいない」の意味は、「私の本質はこの身体ではない」と、何か行為を行なう主体はいない。この2つが基本だと思います。つまり「自分」は現象のようなものです。

    一方、真我とは「自己の本質」を意味し、アートマン=ブラフマンとも「それ」とも「真実在」とも、いろいろ言われますが、絶対一者で恒常普遍の存在、というべき純粋な意識です。これに個別性はないので、「私はいない」となります。

    1. 秀峰さん
      相変わらず、見事な説明ですね。
      仰る通り、根源的一者である「絶対無」に個別性はなく、同時に「自己」の大いなる真髄そのものでもあります。
      それは無限として絶対のものではありますが、同時に限定された個に対して相対的なものでもあります。
      この根源的無の捉え方によって、説き方が異なってくるのだろうとも思います。

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